2015年10月08日

自分のルーツを求めて -瀬田唐橋- 〜滋賀県大津市瀬田〜

前回の琵琶湖・竹生島神社で過ごした皆さんと解散した後、私は一人、電車で滋賀県内の大津市へ向かいました。

今回の旅、実は他にも目的がありました。
それは、自分の体のDNAの一部にもなっているご先祖様の記憶を辿ること。
私のルーツ。
自分はどこから来たのか、どこにいたのか、どんな景色を見ていたのか・・・
神社を巡るようになって以来、そんなことを考えるようになりました。
今ここに自分がいるということは、当然父と母が在ってこそ。
その父と母が在るのも両祖父母が在ったから。
更に遡っていくとたくさんのご先祖様がいて、その誰か一人が欠けていたら今の自分はここにはいない。
空想じみた話だけどこれは紛れもない事実。
だから私が今ここにいるのはご先祖様たちのお陰。
今これを読んでいるあなたもそう。
どれだけ親を憎んでようが疎遠になっていようが、その体には両親を含む多くのご先祖様たちのDNA(魂の記憶)が刻まれているんです。
そのDNAはまた、あなたの体を象っている。
そう思うと、”自分”って貴重な存在ですよね
だから”自分”を大切にしてください

話しがちょっとそれたので元に戻して、目的地についた時間は午後4時頃。
竹生島で皆さんと離れるのが惜しくてついつい長居してしまい、予定より遅い時間になってしまいました💦

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この先に目的地があります。
その目的地はどこかというと、ここです

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瀬田の唐橋
琵琶湖を南下して「唐橋前駅」から西に向かうとすぐ瀬田唐橋と瀬田川に着きます。
ここでちょっと雑学💡
橋には入口と出口がちゃんとあるのです🔍
見分け方は漢字で表記されている橋名版があるのが入口、ひらがなで表記されている橋名版があるのが出口。
なのでこの写真は入口になります

私の父方の祖父というのはテキトーな人で(笑)、先祖代々の細かな情報というのは殆ど聞いたこともないし残ってもいないんだけど、滋賀県の”瀬田”ということだけは知っていました。
”瀬田”のどこかは分からないけど、ここら辺で有名な”瀬田唐橋”と”瀬田川”は確実にご先祖様もその景色を見ていただろうと、そして一度はそこを訪れてみたい、という想いがありました。
そこで特殊な体験をしたいなどということではなく、単純にご先祖様がいた土地を踏んでみたかった。

この橋名板を見た瞬間、「やっと来れた」と胸が高鳴りました
唐橋と聞いて朱色をイメージしていたんだけど、渋い山吹色でした

写真も何も見ないできたので、昔のまま残されているのかどうか全く皆無でしたが、現在は国道になっていて、結構車通りがある幹線道路になっていました。
川に架かっている橋だから車通りが多いのは当たり前といえば当たり前かな

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中島があるので橋が2つになっています。

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瀬田川 下流方面


逆の入口には「瀬田川」という板がついてます。

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瀬田川は琵琶湖から流れてきて、下流へ行くと宇治川、そして大阪へ入って淀川と合流して大阪湾へ出ます。

ところであの橋の柱の上についてる玉ねぎみたいな飾り、唐橋や古い建造物に使われているのをよく見かけますが、どういう意味があるか知っていますか?

気になったので調べました

「擬宝珠(ぎぼうしゅ)」といって、仏典では災いを断つ力を持つとされている「宝珠(ほうしゅ)」と呼ばれる珠(丸い珠で頭がとんがってる)に似せたので擬宝珠となったそうです💡

橋というのは出入り口。
悪いものが入って来ないように魔除けとして飾られているんでしょうね

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う〜ん・・・そういうことも妄想しながら橋を渡ると更に妄想が加速します(笑)

この瀬田橋、「唐橋を制するものは天下を制する」と言われ、古来より京都の喉元を握る交通・軍事の要衝として重視されてきたそうです。
瀬田橋が戦の歴史舞台になって約千八百年。
古くは大津京が幻の都となった大友皇子と大海人皇子(おおあまのおうじ)の『壬申(じんしん)の乱』をはじめ、『寿永の乱』、『承久の乱』『建武の乱』など数多くの戦乱の舞台ともなりました。
織田信長の瀬田橋の架け替えは、比叡山焼き討ちの4年後、天正三年(1575)に諸国の道路修理を命じ関税を免除するとともに、瀬田城主、山岡景隆と木村次郎左ヱ右衛門を奉行に任命し、近江の朽木などから木材を調達し、長さ百八十間(約350m)、幅四間(約7m)の一本橋をわずか3ヶ月という突貫工事で架け替えさせたといわれています。

この土地を行き来していた人々にとって、とても重要な意味を持った橋だったようです

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瀬田川 下流 中島の向こう側

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瀬田川 上流


川の対岸に何やら絵が💡

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藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと)という平安時代中期の貴族・武将らしいです。
このような看板がありました

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この看板では”爺さん”という人物が出てきますが、”娘”という説もあります。
wiki先生から抜粋

「百足退治伝説
近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。
その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。
娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。
娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。
藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を7巻き半する大百足が現れた。
藤太は矢を射たが大百足には通じない。
最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。
藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。
また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという。
伊勢神宮には、秀郷が百足退治に際して龍神から送られた、という伝来のある太刀が奉納されており、「蜈蚣切」(蜈蚣切丸、とも)の名で宝刀として所蔵されている。

ちょっと驚いたのが、竜宮というフレーズ
龍伝説は至る地域で在るけど、この滋賀の地にもあったんですね

橋を渡ってすぐに私が尊敬する方に縁(ゆかり)のある建部大社があります。
ここも以前からずっと行ってみたかった神社
ということで、橋の出口を抜け足早に・・・

次の記事で詳しく書きますね

建部大社から唐橋駅へ向かうため、太陽が沈む時刻にまた瀬田唐橋を渡ったのですが、ここで初めてわかりました。
私がこの日、この時間、ここに来た理由。

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橋に踏み入れてこの景色を見た瞬間に魂が震えるのを感じました

台風が来ていたのに京都は初日から晴れていて、この日も晴天の竹生島に上陸でき、そこで長居せずすぐに瀬田へ向けて出発していなければこんな景色は見れなかったんです

「遅くなっちゃった💦」と焦っていたけれど、遅くて良かったんだ。
全て予定されていたんだ、とそう思わずにはいられない景色に息を飲みました。
大きく羽ばたく鳳凰のようにも見える雲に神様の存在を感じずにはいられませんでした。

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360°どこを見てもこの景色
幻想のような世界に圧倒されて暫くひたすら眺めていました。

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遠くの山並みを眺めながら、自分のご先祖様も見ていた景色なんだなと思うと過去にタイムスリップしたような感覚になり、何故か心の奥から涙がこみ上げて遥か昔に想いを馳せていました。

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後から知ったのですが、瀬田唐橋からの夕陽は”琵琶湖八景”の一つ、そして”近江八景”の一つとしても有名で、”日本三名橋”の一つしても有名な長橋でした

前回の記事でも書いた竹生島は同じく”琵琶湖八景”の一つ「深緑 竹生島の沈影」でした。
ご先祖様のルーツを辿ってきた場所がまたその一つ、「夕陽 瀬田石山の清流」、更に”近江八景”では「瀬田の夕照」として名所だったとは

こんな素晴らしい景色に出会わせてtくれて、ご先祖様から プレゼントをもらった気分

いつかまた滋賀に来て、琵琶湖八景と近江八景を制覇してみたい気分になりました
私の飽くなき探究心が疼きます

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同じような写真ばかりでスミマセン💧
壁紙などに・・・って誰もしないか(笑)

ご自身のルーツ探しの旅、言葉でうまく表せないけど色んな想いが溢れてくるものでした。
この感じ、うまく伝えられないから皆さんもご自身でご先祖様がいた場所に行ってみて、感じてください
細胞ひとつひとつのDNAに刻まれたものを感じに・・・

なんとなく、自分の中で変化が起こった感じがします

時間と共に色を変えるグラデーションの空に、ここを訪れることができたことを心から感謝して夕闇の中、京都のホテルへと戻るのでした。
posted by RYO at 23:37| Comment(0) | 魂の記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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